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2019年10月08日

「手取り14万円、日本終わっている」の議論で見落とされていること

 ども勉三です。ネット上で「手取り14万円、日本終わってますよね」と発言した人に対し、ホリエモンが「日本がおわってんじゃなくて『お前』がおわってんだよwww」とツイッターで批判したことが話題になっています(記事)。

社会として彼らにどう対応していくべきなのか?

 調べてみると、発端はガールズちゃんねるに立った「手取り15万円以下の人」というトピ(スレッド)にある、「アラフォーの会社員です。主は手取り14万円です…。都内のメーカー勤続12年で役職も付いていますが、この給料です…。何も贅沢出来ない生活。日本終わってますよね?」というトピ主の方の投稿のようです。

 これについては色々な意見や考え方があるかと思います。無論、社会には障害や病などで苦しんでいる方もおられるわけで、そういった通常の手段ではお金を稼げない人たちに対しても仕事を与え、社会としてどう支えていくかは大事なことであると勉三は考えています。

 しかしながら、恐らく精神的・肉体的にも健常で、日本での教育も受けてこられたであろう人の中にも、12年間勤続し手取り14万円という方もいるわけです。そういった人たちに対して社会がどう接すべきかは、先述の社会福祉とはまた別の課題があるわけです。

 その中で、自己責任論に走るのは容易ですが、勉三が思うのは社会はお金を稼ぐために必要なことをきちんと教えているのだろうかということです。お金を稼ぐためには「稼ごう」と思うマインドセットと、稼ぐための「スキルセット」が必要になります。その2点から考察を加えたいと思います。

お金を稼ぐためのマインドセット

 当たり前の話ですが、お金を稼ぐためには「稼ごう」とする強い意志が必要です。現代日本はこの点から目を背けて子供を教育しているのではないでしょうか?

 例えば、社会に出たら人間は年収で判断されるわけです。異なる職業の人を互いに比較できる共通のモノサシは年収ぐらいしかありません。ローンを組むときだって、転職する時だって、結婚する時だって、いつだって「どういう仕事をしていて」「いくら稼いでるのか」が問われるわけです。

 しかし、社会を見渡せば「人間の価値と年収は関係ない」だとか「年収なんかよりやりがい」という美辞麗句が溢れているのではないでしょうか? 学校では「年収は大事だぞ」と教えてくれる事はないでしょうから、親がきちんと教えるしかありません。しかし親が教えてくれなかったら? その子供はお金を稼ぐことに対して強いインセンティブのないまま育ってしまうのではないでしょうか?

 もちろん、まだ日本が貧しい時代はそんなことを教えずとも、お金を稼ぐことに強い憧れがありました。しかし、今は殆どの人が何不自由なく育ち、少しでも年収の高い仕事を目指すといったことは、むしろ否定されてしまう世の中なのではないでしょうか。

 あくまで仮定ですが、病気や障害といった理由もなく「貧困層」に陥っている方々には、こういったタイプの方が多いのではと思います。いわば彼らは自己責任ではなく美辞麗句を並び立て責任を取らない社会の被害者と言えるでしょう。逆に幼少期に貧しい境遇で育った人は、ハングリー精神がありお金を稼ぐことに対して前向きな方が多いのではと思います。

 勉三も小さい頃から「うちはお金が無いから大学は国公立しかダメだからね。受験落ちたら働いてもらうからね」と散々親から言われて育ってきたような環境でしたから、大学に入って周りがみんな裕福な家庭の子ばかりで驚いたものです。

お金を稼ぐスキルセット

 次に、お金を稼ぐということを精神面ではなく教育面から見ていきましょう。お金を稼ぐというのは社会に必要とされるスキルを身につけて、社会で価値のある仕事をし、その対価を受け取るということです。

 そして、グローバル化が進んだ現代では、単に小学校から大学まで教育を受けて、日本語だけが喋れるだけでは大した労働価値がありません。

 では逆に学校教育は、現代社会で必要とされるスキルを教えているのでしょうか? そうは思えません。学校教育のカリキュラムは、多少の改定はあれど基本的に100年前から枠組みがほとんど変わっていません。

 例えば現代で価値の高いスキルは、プログラミング、英語、数学、会計などです。ところが学校では古文、音楽、家庭科などの(労働価値としてみた時は)役に立たたない科目に多くの時間を割いています。

 別に勉三は古文や音楽が役に立たないと言いたいわけではありません。教養も必要でしょう。しかし優先順位というものがあります。そういうのはお金を稼げるようになってからやればいいのであって、お金を稼げるためのスキルをまずは身につけさせるべきでしょう。

 日本の学校教育はアジア諸国からも後れをとっています。中国やインドには「手取り14万」より安い給与で、英語もできてプログラミングもできる人材がわんさかいるわけです。

 この点に関しても、「貧困層」に陥っている方は社会の犠牲者といえるでしょう。学校で古文や音楽を教えているのは、児童や生徒のためではなく学校の先生の就職先を確保するためです。

 福沢諭吉は著書「学問ノススメ」の中で以下のように説いています。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

現代語訳:学問とは、ただ難しい字を知り、難解な古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなどといった実のない文学をいうものではない。これらの文学は、人の心を楽しませ良いものではあるが、古来より世間で儒者や和学者が言うほどあがめて尊ぶほどのものではない。昔から、漢学者で家のことをうまくやる人は少ないし、和歌が上手で商売も巧みな町人というのも稀である。このため、まともな町人や百姓には、子供が学問に没頭し出すと「そのうち貧乏でなんともならなくなってしまうのではないか」と心配する人もいる。これは無理もないことである。つまるところ、その学問が実益に遠くて日用に合わない証拠である。そうであるならば、こういった実益を生まないような学問は後にしておいて、もっぱら専念すべきは人間の日用生活に有用な実学である。

 福沢諭吉は実学こそが学ぶべき学問であると説き、後の節では「貴賤上下の区別なく皆が学ぶべきである」としています。また、個人が実学を身につけることで、天下国家も独立するのであるとしています。

 現代日本が忘れてしまったのはまさにこの精神です。お金儲けと実学から目を背け、お金を稼ぐ気の無い、お金を稼ぐことの出来ない人たちを大量生産してしまいました。もちろん、それが永遠に続けばよいのですが、実際は社会に出てからそうでないことに気づくのです。

最後に

 如何でしたでしょうか。今回の記事を読めば、自己責任論ではなく、彼らはむしろ社会の被害者であることに気づくのではないでしょうか。

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posted by 勉三 at 00:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事
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