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2018年04月18日

人生に迷った時に読みたい「まんが道」(1)

 ども勉三です。あらゆる漫画作品の中から名作百選を選ぶことになった場合、藤子不二雄A先生の「まんが道」はその中に入る可能性が限りなく高い作品なのではないでしょうか。

今更説明不要ですが藤子不二雄両先生の略歴から

 作者の藤子不二雄A(安孫子素雄)先生は、後に藤子・F・不二雄となる藤本弘先生と、富山県高岡市で小学校で知り合い、後に漫画家コンビ「藤子不二雄」のペンネームで、「オバケのQ太郎」「パーマン」「ドラえもん」などの名作を世に送り出しました。1987年にコンビを解消し、我孫子氏は藤子不二雄Aを、藤本氏は藤子不二雄F(後に藤子・F・不二雄に変更)として独立(正式には丸付きのアルファベットです)。

 コンビ解消に関しては正確な理由は公表されていないので推測になりますが、不仲ということはありえません。コンビ解消後も両氏は非常に仲が良かったことは有名な話です。解消の理由に関しては時期を考えれば自ずと見えてくると勉三は考えています。1987年前後にかけてF先生は病気になり「ドラえもん」の連載を1年ほど休載する期間がありました。

 1980年公開の「のび太の恐竜」以後、毎年1年1作品ずつ描き続けられてきた大長編作品もこの年は執筆されず、映画第9作の「のび太のパラレル西遊記」だけ原作コミックスが存在しないのもこれが理由です。このような病の床で自らの寿命についてF先生も思うところがあり、生きている間にコンビ解消し死後に発生しうる権利問題を解消しておこうと先手を打ったのではないでしょうか。無論憶測に過ぎませんが勉三はそう考えています。

 ともかく、このコンビ解消により藤子不二雄名義だった作品は、「オバケのQ太郎」などを除き、その実質的な作者に基づいてA先生かF先生かに振り分けられることになりました。というのもコンビ解消よりずっと前から、二人で合作することは無くなっており実質的に独立して執筆してきたためです。

 その配分をみてみるとA先生は「忍者ハットリくん」「怪物くん」「まんが道」「プロゴルファー猿」「魔太郎がくる!!」「笑ゥせぇるすまん」などの作品。F先生は「「パーマン」「21エモン」「ドラえもん」「キテレツ大百科」「エスパー魔美」などの作品になります。どちらの先生も多くの名作傑作を世に送り出した天才であることには異論をはさむ余地はないでしょう。

「まんが道」はコンプレックスに悩みつつ生きてきたA先生の自伝

 さて本題に戻りましょう。「まんが道」は藤子不二雄A先生によって執筆されました。まんが道はA先生の生い立ちをベースにしたフィクションという位置づけになっています。基本的には事実なのですが所々創作も交えているのでその点には注意が必要です。

 主人公はA先生自身をモデルとした満賀道雄(まがみちお)。それとF先生をモデルとした才野茂(さいのしげる)。この2名が互いに知り合い、漫画家を志し、そして上京して実際に夢を叶えるところまでを描いています。

 一見するとユーモラスなネーミングですが、才野茂という名前にA先生のF先生へのリスペクトを感じずにはいられません。事実、第1巻では満賀が才野の「才能」に驚嘆し、憧れとコンプレックスの混じった思いを持つエピソードが繰り返し描かれています。

 その1つを紹介しましょう。仲良くなり才野の家に呼ばれた満賀。そこで才野の作った幻燈機という現代でいえばプロジェクターのような装置を使って、各自が10枚ぐらいの漫画(紙芝居のようなもの)を描いてきて映写会をやろうという話になりました。

 ところが満賀は何を描いていいか分からず、持っていた本の挿絵をそのまま模写することにしました。映写会当日、模写したとは言えず自分が描いたことにした満賀。一方、才野の方は天空魔という完全オリジナルの作品を描いてきていました。おまけに作中に出てくる空飛ぶ軍艦のモデルシップを実際に模型で作るという完璧っぷり。実力の違いを見せつけられた満賀は、ゼロから漫画の勉強をしようと決意します。

続く

 いかがでしたでしょうか。とても1回では紹介しきれない名作なので、続きは次回に回したいと思います。

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posted by 勉三 at 20:00 | Comment(0) | 書評
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