スポンサーリンク


マネースクリプト診断

ポテンシャル年収診断


2018年01月09日

早期英語教育の議論で見落とされている本当に大切なこと

 ども勉三です。よく議論になる早期英語教育の是非。この議論に遭遇するたびに勉三は「またか」と思ってしまいます。いつも賛成か反対かの枝葉の議論だけに終始してしまい、本質が議論されることはありません。

英語だけでなく公教育の役割を議論しないと意味がない

 勉三は英語は比較的得意な方です(TOEICだと950以上)。もし「小学校で英語教育を強化することに賛成ですか?」と聞かれたら「反対」と答えます。ただしその理由は「英語の前に日本語をまず固めるべき」だとかよくあるとものとは異なります。私の反対理由は「英語ができる人が増えたら、多少は英語が得意なことで得られている自分の優位性が失われて損をするから」です。

 私は自分の利益が一番大事です。国の公教育がどうあるべきかはその次です。だから、恐らく無いと思いますが、小学校で英語をしっかりやるようになり、国民全員が英語がペラペラになったら困ってしまいます。そうなれば、今ある通訳や翻訳のニーズは激減するでしょう。それ以外にも英語力で就職や転職が有利になることもなくなります。自分の優位性が失われるから嫌だ。理由はそれだけです。シンプルでしょう? なお、小学校での英語教育の強化には反対ですが、自分の子供には小学生のうちから英語は勉強させます。

 こういう回答をすると、多くの日本人はポカンとして「この人は冗談を言っているのだ」という眼差しで見てきます。ですが、冗談ではありません。本気です。そして、こういったところに議論の本質はあるのです。「誰にとってか」という視点のない議論は意味がありません。私にとっての利益と、あなたにとっての利益と、国家にとっての利益と、子どもたちにとっての利益。それぞれ同じとは限りません。なのに「英語教育に賛成か反対か」なんて議論は意味がありません。

 もし公教育での早期英語教育の是非を議論したいのであれば、まず公教育の位置づけや求められるものから議論すべきです。そこが定まらないと、公教育で何を教えるべきかなんて議論できるわけがない。であるのにも関わらず、議論はいつも「賛成だ」「反対だ」に終始してしまうのが残念です。こういった傾向は日本人には特に顕著なようです。全体を見るとか本質を抽出するということが国民性として苦手なのです。

では公教育の位置づけとは何なのか?

 英語に限らず公教育の位置づけに関しては、しばしば議論になることがあります。「音楽や古文は要らないから削るべきだ」「いや古文は教養として重要だ」「プログラミングなどを教えるべきだ」「社会に出てから役に立つお金のことをもっと教えるべきだ」など。これも同じ問題です。公教育がどうあるべきかコンセンサスがないから、答えが出るわけがないのです。

 もし、公教育が受益者の意思、すなわち子供達とその保護者の意向を優先すべきなのであれば、一定の範囲内で選択制にし、保護者が自分の子供たちに受けさせたいものを選ぶ形式が考えられます。親が自分の子供に英語を受けさせたいと思うのであれば受けさせればいいですし、不要と思うのであれば受けさせなければいいのです。勉三はこれが最も合理的なのではと思います。

 一方で、公教育は受益者の意思よりも、国家として国民の教育をどうするかの視点から決めるべきだという考えもあります。これも確かに一理はあり、例えば最低限の基礎となる国語、算数、理科、社会だとかはそうだと思うのですが、それ以外になると全ての国民に一律の同じ教育というのは最早無理があるのではと感じます。

 いずれにせよ、公教育のあるべき形という原理原則を議論しなければ、英語を教えるべきだなんて議論できるわけがないのです。

枝葉の議論ではなく本質の議論を

 相対性理論の提唱などで有名な物理学者アルバート・アインシュタインは「私は地球を救うために1時間の時間を与えられたとしたら、59分を問題の定義に使い、1分を解決策の策定に使うだろう」と言いました。しかし、多くの人は1時間の時間を与えられたら、問題の定義を考えることなく、1時間全てを解決策を考えるために費やし、結局答えが出ないという罠に陥りやすいのです。

 英語早期教育の議論もまさにアインシュタインの言う通りで、賛成か反対か枝葉の議論ではなく、本質を議論してもらいたいものだと勉三は強く感じます。

スポンサーリンク




posted by 勉三 at 20:00 | Comment(0) | 時事
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。